その日の午後10時、風呂に入る前の花井梓は、とてつもなく用心をして自分の部屋にこもった。
もちろん、兄のプライバシーを生まれてこのかた尊重した事のない双子の妹やウザいくらい自分を気にかける母親は
自慰の場では非常に厄介で、何の気の使いようもない足音に反応し何度下げかけたジャージを上げなくていいところまで慌てて引き上げたか底知れない。
でも、当然それの配慮もあるのだが・・・自分の布団にもぐり、モゾモゾとジャージの上から触る。半起ち。
半起ちってしぼんでんのより何倍も情けない気がする、が、それも高校生という言い訳の前には勝てない。
複雑な表情で太ももの半分まで下ろして飛び出てきたソレを握ると、花井ははぁと溜息をついた。
3ヶ月前に買ったエロ本を引っ張り出してくる。ペラペラとめくって、全くその気もないくせに適当に可愛い子のぺージを開きっぱなしにした。
学生の本分は想像と妄想だ。ことオナニーに関しての男子高校生はそれにかけちゃプロ級だと思う。
目を閉じただけであっという暇も無く目の前の可愛い女の子はムチムチのビキニをスレスレまで下ろす。
欲情した目で自分を見つめ、くださいとかほしいとか、それこそ聞いた事もない女の声を作り出すくらい朝飯前で。
そこまで想像して
花井は絶望感に苛まれた。外からは、演出のように雨が本降りを知らせて音を奏でる。
と、今日、俺は、キスをしてしまいました。
思い浮かべまいとしていた射精の瞬間
やっぱり思い出してしまったのは、引き止めたときのの顔と
逃げられないくらいの粘着質な
「梓」の声で。
好きな人でオナニーすると後悔するってほんとかな。
ほんとでしたどうもほんとうにありがとうゴザイマシタ。
Thank-you Smoking.-----6
見た事も無い顔をしていたことだろう。さぞかし驚いていたことだろう。いや、もしかしたらどちらでもないかも知れない。
の事だから、もしかしたらキョトンとかアハハとかで終わらせているかもしれない。
とにかく昨夜の花井は、そんなリアクションがどうだとか見守る余裕もなく
の唇に2秒間唇を当てると、まるで逃げるみたいに家の玄関をくぐった。
車がまた発進するまでの何秒かすら何時間にも感じてしまう程。
かっこわりー・・・っつーか、俺、さん相手だと底なしに情けねぇな。マジ、おかしーわ、ほんと。
「花井ー」
好き?あー、好き、だよな。これって好きって事なんだよな。さん。さん。
「はないー?」
やっべ、思い出したら・・・。抑えきれない口角の上昇を、花井はうつむいて誤魔化したが
それは大層気持ち悪く、先ほどから話しかけていた阿部と水谷は一瞬つばを飲み込んだ。
花井が病気だ。これは病だ。違いない。きっ・・・・・きもちわるい!
「ちょ・・・花井」
絶望をタップリ含めた水谷の声に、タイミングのせいだろう花井はハッと顔を上げた。どーでもいいからその顔なんとかしろ。
「・・・・んだよ」
「・・・お前どーしたんだよ?」
珍しくあの鉄仮面阿部様までが心配している。色々足し算してこの場所の空気は相当悲惨な気持ち悪さだ。
「・・・どーもしねーよ」
「昨日大丈夫だったん?」
無論それは「昨日途中で帰っちゃって雨とか降ったけど平気だった?」のソレだったのに
花井は顔を真っ赤にしたモンだから、もうなに?ここオバケ屋敷?冷えるんだけど!ただでさえ冬の雨は冷たいのに!
「だっ・・・大丈夫だよ!」
「花井・・・」
「きーもちわりぃ・・・」
並の人間なら3日は立ち直れない阿部の口調に打ち勝てる程?そう、それほどに。花井は言ってみれば有頂天だった。
好きだと思った人に、ファーストキス。やらかい唇、タバコの匂い。
なんでだろう、した後すごく後悔した。キスしちまった、と頭の中で無限に言葉が帯を作って終わり無く流れて行って
後悔と超絶嫌悪感に見舞われてとにかくもう死んでしまおうかとすら思ったのに。
そんなのたった一瞬だった。現実をはしょって言葉にしてみれば「花井とがキスした」で
それはどんな都合のいい解釈だろうとも、花井に果てしなくあふれ出るくだらないパワーを与えているより他は無い。
「うるせー」
「・・・なんなのコイツ」
不審者か変質者でも見るような目を向けられて、なんだよなんだよと小学生みたいに抵抗してみても。
なんかあったのは隠せない。花井は普段あんまり感情を表に出さないようにしているけど、結構綻びが多くて
それをつつくのを面白がるのは多分9組の連中だから、優しさからではないにしろ阿部と水谷は花井をほっとく事にした。
外では雨がザーザー降る。今日は筋トレやってミーティングやって終わりかな。
今日もは来るんだろうか。今日が始まったばかりとは思えない。早く放課後になれ。そして
そして、に会いたい。
それは突然前触れも無く。昼休み開始から5分で、教室をふと横切った一瞬の残像が花井の脳にクリーンヒットした。
「ちょ、今、さん通んなかった??」
慌てふためく花井に、いつもの機嫌の悪そうな顔を野球雑誌から上げて阿部は溜息をつく。
なんなのコイツ。やっぱ俺の予想って当たりなのかな。
「通るわけないじゃーん」
水谷は間延びした声でそう言うとエビゾリになる。教室がさかさまに見えて、廊下が見えて・・・・次の瞬間椅子からひっくり返った。
「さん!?」
「ちーっす」
教室の外から手を振る彼女は紛れも泣くで、当然の如く花井の血液の循環がおかしくなる。
「なっ、どうしたんスか?」
ひっくり返った椅子を直す事もなく、水谷はに駆け寄る。の横には当然の如く田島と三橋と泉と、なぜか浜田までくっついている始末だった。
「暇だから来てみたのー。みんな勉強してる?」
そう言うと、バチリと花井と目が合う。花井はう、と少しだけうなったが、はと言えば
まるで昨日の出来事がウソみたいに、けらっと笑っていた。
安心のような・・・少し残念のような。まあ、は多分真っ赤になってうつむいて、ギクシャクする器じゃないんだろう。
そんな、女子高生じゃあるまいし・・・。
「よー花井君」
「・・・ども」
「タカネムソー!」
きゃっきゃきゃっきゃと、私服校だという事も手伝っての振る舞いは高校生となんら変わりは無いように見えた。
クラスの何人かの男子が見慣れぬ顔とその存在感に、惚れ惚れとしたような表情を見せる。
正直、こうゆう人が知り合いで、しかも自分達を訪ねてきてくれるなんて、やっぱなんやかんや抜きにしても優越感は否めない。
「久しぶりに校舎はいったけどヤバイなつかしー」
「、探検しよーぜ!」
「えーしたいしたい!」
「昼飯どーすんだよ?」
浜田がそう言うと、はハッとしたようにあたりを見回した。
「そっか!お昼ごはんだよね!」
ごめんね邪魔して、と眉毛をめいっぱい下げてみせるに、いくら彼といえどよりは10センチ以上背の高い田島は子供のように抱きついた。
それはNGなんじゃないか?アリ?それって田島だから?じゃれてるように見えるけど・・・田島はアレだぞ!オナニーばっかしてんだぞ!
「んじゃも一緒にくおーぜえ」
「混ぜてくれんの?」
「ったりまえじゃんか」
その言葉に、ぱあっと顔を明るくしたは、田島の頭をわしわし撫でて嬉しそうにありがとうと言った。
「あ、ムネやらけーきもちいー!」
その言葉に、一瞬の間のあと全員が全力で田島をひっぺがしにかかったのはもういうまでもない。田島の暴走を止めるのは、義務なのですよ。
とうの本人は気にした様子もなく、まぁまりあには負けるけどね!とまた爆弾発言をかまして悪戯に高校生の純情を引っ掻き回すのだった。
「え?こっちじゃないの?」
指差す方向は売店とは間逆で、花井ははぁと溜息をついてチガイマスとキッパリ言った。
「うわー場所変わったんだ」
「あっちだったんスか」
「そだよー。あーでもこうゆうの久しぶり」
ニコニコ笑うご機嫌なに釣られるみたいに、花井まで少しニヤけてしまう。
昼休みの廊下で、静かに2人きりになんかなれるハズもなく。ガヤガヤとした雑踏の中を売店へと向かう。
の小さな手の中では、俺も俺もと差し出された小銭があふれんばかりに音を立てている。
「何笑ってんスか・・・パシリっすよコレ」
「えー?いいじゃんあたしが行きたいっつったんだもん」
きっと今頃7組の教室では、残りのメンバーが9組との席を大変な思いで確保している事だろう。
そう思うと、案内役もなかなか役得かもしれないなと花井は思った。
「しかし降るねー、雨」
「あー・・・そっすね」
「風邪ひいてなくてよかったよ」
「いや・・・濡れなかったし」
さんが送ってくれたから。声に出そうとすると昨日のあの事に連動してしまい、花井はその言葉を宙に浮かせた。
少しだけ前を歩いていたが一瞬振り返る。ざわつく廊下の中で、必死にすくいあげるの声。
嫌な緊張感のあと、普段と変わらない口調では言った。
「きのーはごめんね」
「・・・え?」
少しだけ眉を下げながら、申し訳なさそうに笑っている。その表情はあまりにも花井には複雑すぎて、言葉の表や裏を見抜くには技量が足らな過ぎた。
絶句する花井が気づいた頃にはもう、の足はまた前に向かっていて。
見失うまいと花井も慌てて長い足を出す。
「ムダにあおっちゃったよね」
「えっ?」
「ごめんね。高校生相手にあんなの・・・ちょっとやりすぎた」
あんなのってなんの事だろう。
家まで車で送ったこと?
俺の服を掴んだこと?
下の名前で呼んだこと?
まるで失敗したみたいに、間違いだったみたいにそう小さな声で、花井にだけ聞こえる声で呟きながら歩くの肩は
昨日よりずっとずっと、小さく見えた。
一気に感情が冷めていく。舞い上がった自分が死ぬほどバカに思えて、一瞬で花井は自分を殺したくなった。
「昨日の事はー忘れてあげますよ」
まるで、テストで0点とってきた息子をなだめるみたいに。はそう言って、にこっと笑う。
俺は、忘れられないです。
がなんて言っても俺は絶対、忘れられないです。全力で否定した言葉は声にならずに
あまりに無力過ぎる自分に花井はもう自分すらやめたくなった。
もし俺が高校生じゃなくて、普通に大人の男だったら
今日あなたは、昨日の事を思い出してそんな顔で笑わないと思う。
背も伸ばす。性格だってもっと大人になる。でも、生まれた時期は変更できない。
結局自分は自分から死ぬまで逃げ切れないんだと自殺願望にも似た最悪な嫌悪感に苛まれた花井を振り返らずに
チャリチャリと音を立てながら、は売店に駆け寄って行った。
その日の筋トレの練習に現れたはやっぱりいつもの笑顔で
好きな人の笑顔を見てムネがチクチク痛むなんて知らなかった花井は
その始めての鈍痛と苦しみに、またしても眉を歪めるハメになった。
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