あ、買ってきてあるからね。
きく江の言葉に促されるように見たテーブルの上には、見慣れた小さな紙袋。
そうだ、そうだ。3日前に頼んだのを思い出し、花井は聞こえないくらい小さく
「さんきゅ」
と言って階段を上がっていく。
そのタイミングにあわせたように家の電話が鳴り、背中のほうで「もしもし花井です」が聞こえた。
Thank-you Smoking.-----35
明日は待ちに待った練習試合。
あのなんの為にもならなかったようなビデオを5回ほど阿部と見ては、明日の事を考えた。
しかし、阿部は投球の事まで考えてんだからすごいよなーとぼやっと思ったが
よく考えてみればアイツのアレは趣味みたいなモンだからなーとか、勝手な事を考えたりして。
スゥエットとTシャツに着替えた花井は、カバンをあけてグローブを取り出す。
先ほどの小さな紙袋から、お気に入りの新品のワックスが出てきて、フン、と鼻息をついた。
グローブを磨くときは、いつも野球の事を考える。
なのに。なのに俺ときたら。
さんが来るっつーだけで、妄想がやまなくて困っている。
キュ、キュといい音をさせて、ボロ布でグローブを磨きながら花井は明日の事を思い描いてみた。
コールド狙いの阿部の意思を汲んで、自分は出来る以上の投球をする。
あのピッチャーの球種はさほど多くないから、ここにきたらここでとらえて・・・2点入って。
試合終わって片付けてたらさんが来て、『花井君かっこよかったよ!』っつってくれて
そんで俺は多分試合前に『ホームラン打ったらキスしてください』とか言ってて
さんは俺がどっか向いてるときに・・・ちゅ・・・って・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ハ!!!!!!!!
お前は本当に馬鹿野郎だよ。
これ以上ないくらいの晴天に見舞われた、終業式から2日後のグラウンド。
向こうが来る予定の2時間前から念入りにグラウンド整備とミーティングを始めたのだが
「・・・なんか人多くない?」
「俺も思った」
栄口が酷くしんどそうな顔をしていて、同じくトンボを引きずっていた水谷までもが不安そうにまわりを見回す。
「これってあれかなあ・・・」
「だろーな」
阿部が別段気にもせず今日の投球配分を書いた紙を三橋に渡しに行く。
そんな背中を見ながら、西広は苦笑した。
「ちょっとは有名になったのかな?」
「だからってさあー」
決して広いとはいえないグラウンドのまわりにちらほら見えるのは、目を輝かせた中学卒業したての男の子たち。
「こらこらー!何びびってんの、君たちの後輩もあの中にいるんだよー?」
いつの間にか現れた百枝にばしっと背中を叩かれると、栄口の顔がいよいよヤバくなる。
「こ、こう・・・はい」
ピッチャーの座を誰よりも心配している三橋の顔は先ほどから栄口より白い。
「あらら・・・」
「こら三橋、テメェんな事でビビってんじゃねー!!」
「まぁまぁ阿部・・・」
「だ、おれっ・・・」
「三橋ー気にすんなよ」
ちょっと前まで見向きもされなかった野球部・・・1年前なんか存在すらしなかった。
それが今、入部希望(かもしれない)の少年たちや、どこから来たのか女の子までいたりして。
百枝は嬉しさと緊張する栄口や三橋に苦笑しながら、ノックでもやろうか、とバットを握った。
「っつーか、なんでうちの母親来てんの・・・」
「いや・・・俺んちもなんでかしんねーけど来てる」
俺は家近いから暇なら観にくればって言ったよ。田島のそんな言葉に、照れの為か顔を赤くした泉と花井が溜息をついた。
というか、3人どころか・・・なんかわらわら集まってねえか?チーム・マザーズ!!
「あ!こっちこっちい!」
ブンブンと手を振るきく江に、隣にいた三橋尚江が振り返る。
「きく江さーん、どもー」
車のキーを指でまわしながら笑顔できく江の名前を呼んでいる・・・女の子。誰?
母親陣の疑問をヨソに、まったくもって揺るがない笑顔でぴったり近寄ってきたは、尚江を見るなり目をまん丸にした。
「あ!!もしかしてレンのお母さん?」
「え?あ・・・え?」
「そうなのーそっくりでしょおー?」
「うん、超似てます!うっわー」
「え、あの、花井さん、どなた?」
その言葉にハッとしたように、女の子はふかぶかと頭を下げる。サラリと髪が揺れる音がした。
「あ、始めまして、まりあの同級生でしたです」
「あらー監督のお友達?」
「はい」
にこっと笑ったに、きく江はもっとニッコリ笑って肩を抱いた。
「うふふー。うちの子の彼女なのっ」
「え!!??」
一同にどよめきが起こる。グラウンドでは相手チームが到着したばかりなのに、今はもうそれどころじゃなくなってしまった。
「で、でも、今監督の同級生って・・・」
泉恵子が大きな黒目をパチクリさせながら指を指す。
「はい、ここのOGです」
いやいやそこじゃなくて・・・え??
「何、花井君ってばこんなお姉さんと付き合ってるのお??」
西広かずみがあらあらまあまあとキラッキラした瞳で見てくる。
は予想はしていたがやっぱり驚かれたか・・・と、予定の範囲内ではあるが少し苦笑した。
「あ〜思い出した」
ぴん、と人差し指を立てた田島美輪子に、水谷きよえが振り返る。
「何をです?」
「あなたがさんね。ユウからよく話聞いてるわあ」
ふふふ、と笑うエレガントさに、まったくもって頭が上がらない。
「え?田島君、おうちでさんの話してるの?」
「ええ、何でも”花井と別れたらぜってー俺が嫁にもらう”とか」
は一瞬の間のあと、プッと噴出す。
「あはは、そういえば前”行き遅れたらもらってやる”って言われましたわ!」
「もう、ほんとにごめんなさいねえ」
おほほほほ、いえいえあはははは。
「・・・・・っ、なんかしゃべってねぇか・・・」
向こうの監督がダラダラとなにやらモモカンに話しかけているスキを縫って、花井は近くにいた泉に助けでも求めるように言った。
「あー・・・しゃべってんなあ」
俺のおふくろもなんか余計な事いいそうだけど・・・とりあえず俺はさんの情報は何もしゃべってないからセーフだな。
そう言えば花井、もう親にさん見せてるんだよな。うっわなんかやばそー・・・
そんな泉の予想は的中で、なにやらきく江がに抱きついているのが見えた。
「ば!!!」
「・・・?花井君?」
「・・・・・・・・っ!!なんでもありません」
「だあめ!」
「びっくりした〜・・・何よ」
きよえが驚いてに抱きついたきく江を見る。言葉には反して、顔はほころびっぱなしなのだが・・・・。
「ちゃんはうちのお兄ちゃんのお嫁さんになるんだもーん」
「ちょっと花井さん、それって先走りすぎじゃない?」
「やっだーもう!」
「さんコマッチャウわよー」
ねえ?と恵子が笑いかける。はといえば、ここはとりあえずアハハと笑っているしかないのだった。
「まだ若いんだから色々あるわよ」
「そうよそうよ」
「でもお」
「花井さんトコにはかわいい双子ちゃんもいるんでしょ?まだ娘欲しいのぉ?」
「娘っていうかちゃんが欲しいのーっ」
「もおー」
もーなんていうか。嬉しいことばっか言ってくれるなあ。きく江の肌の暖かさを感じて空を見上げる。
天気いいなあ。今日は花井君、活躍するかしら。
遠くでいつの間にか始まったブラバンの演奏の心地よさを感じ始めたに、冷ややかに降って来る・・・百枝の声。
「ちょっと」
百枝の準備さえ整えば、いつだって練習試合はプレー開始。
それを待たせてまでに声をかけにグラウンドの端まで来た百枝は、ふう、と息をついた。
ちょっと花井君を筆頭に気の散り方がハンパじゃないから帰ってくんない。ありていに言えばそうゆう事で。
「えーーーせっかく来たのにい」
「今回だけは譲ってよ」
ぶーたれるに百枝は、珍しく「お願い」と手をタテにして見せたりもした。
「あたしがいたくらいで野球できなくなるとは思えないけど」
「それは当たり前でしょ」
じゃなくって。
一応、新入部員候補も何名かいるわけで。しょっぱなからあんまり刺激したくないのよ。
「ごめんね、うまく言えないんだけどさ」
きゅっと笑った百枝に、はにこっと笑い返す。
「いや、分かった。んじゃまた来るかんね」
それと―・・・
「準備室の冷蔵庫にガリガリ君いっぱいいれといたから」
ガリガリ君かよ・・・・少し腰の抜けそうになった百枝に手を振って、が母親陣の元へ戻る。
さて行くか、とグラウンドのほうを向くと、笑っていいとも!みたいな「ええーーー」が後ろから聞こえた。
「ほんっとすいません」
急用が入った、ということにした。せっかく誘ってもらったのに、本当に申し訳ないです、と頭を下げると
きく江はいいのよいいのよ、と手をブンブン振ってくれた。
何度も振り返っては手を振るを見ながら、チーム・マザーズは憧れの溜息をつく。
「いい子ねえ、さん」
「そうでしょ?」
「ねぇねぇ花井さん、まさか息子の彼女お披露目したくってあたしら呼んだわけー?」
「えー?ちっがうわよお」
「だあって練習試合に召集かけるなんてーおかしいと思ったのよお」
「えー?そうゆう事だったのお?」
違う違うと言いつつ、バッチリ図星だったきく江はグラウンドで整列をしている息子を見やる。
ちょっと見てみたかったのよね。ちゃんがいると、うちの息子はどうなるのかしら。
もっと頑張れるのか・・・それともダメダメになっちゃうのか・・・
「あ、始まったわよ」
「せっかくだから応援しなきゃね!」
「うん!」
しかしもったいないなー・・・。
車の前まで来て、このままズコズコ帰るのもなんだか面倒になってしまった。
だってせっかく来たんだし・・・ぶっちゃけ花井君が試合してんのなんか見た事ないし。
前よりは野球、分かるようになったんだから見たかったなあ。あああああ。
そのとき、曲名は分からないが自分の生まれた時くらいに流行った曲が流れて、は駐車場から上を見上げる。
そしてニンマリ笑うと、何のためらいもナシに校舎へと入っていった。
「さん帰ったの?」
「なんで??」
ベンチでバカみたいに眉間にシワをよせた水谷と田島に、百枝は軽いチョップをくらわせる。
「アンタらがそんなんなるからでしょーが!」
「いってえ・・・」
「あのねえ・・・?」
得意の般若スマイルを見せながら、百枝はゆっくりと、しかし確実に田島のコメカミにグーをあてがう。
「これ以上言ってると、試合出さないよ!!」
「わー!!ごめんなさいごめんなさい!!」
一歩間違えれば・・・いや一歩どころか半歩間違えればあれは間違いなく自分だったんだろうと思うと
花井は開きかけた口の「さん」を封印した。
まぁ帰った事は残念だけれども。せめて「勝ちました」のメールは送れるようにしないとね。
「あ、お邪魔しまーっす」
ブラスバンド部がドアの金属音に振り向くと、見慣れない顔がニヤニヤしていて。
「え・・・?」
「う、あっと、邪魔しないんで、続けてください」
はそう言うと、度が過ぎるくらいブラバンメンバーを避けて屋上のフェンスに顔を埋めた。
ちょっと遠いしぶっちゃけ誰が誰だかぜんっぜんわかんないけど。いちおー見た、ってことにしてもらおう。
一瞬「?」と首をかしげた指揮者だったが、かまわず大きな声を出す。
「じゃあもっかい最初っからー」
プレイボール!
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